Knock our Heart -nockのひねくれブログ-

自分の価値観を表現する場所 

「価値観が古い」と否定するということは、価値観が古くなかったら否定しないということ

僕はお酒が好きではありません。パチンコとか競馬とか風俗とか....。こういったものにも嫌悪感を抱きます。
こういう僕のような人に対して世のおじさん方は「男やったら付き合えよ」と性別を引き合いに出して半ば強引に連れ出そうとするのです。

このようなおじさんに対してこんな反論を返す人がいます。
「男だからってお酒やギャンブルが好きとは限りません!そんなんに付き合う義理なんてないし、そんな価値観もう古いんですよ!」
こう男女平等が現代のスタンダードだと主張して断固誘いを拒否する、なんて意見が聞こえます。
そういう人、結構いません?

ただ、この意見って結構危険だと思うんです。
「価値観が古い」と否定するということは、すなわち価値観が古くなかったら否定しないということです。スタンダードが「男はかくあるべきだ」であるならば、それに私は従いますよと言ってるも同義です。
そんなつもりはないんだろうけど、結局潜在意識の中で時代や風潮に流されてるだけのように思えます。

自分の意見を通したいなら、その意見は時代や周囲の意見に揺らいではいけないのではないですか?「周りが、時代がみんなそうだから」って理由で決められた是非なんて効力なしでしょ。責任を時代に転嫁させてるだけです。
それなのに自分は尤もなこといってると自慢げに話している、そんな印象がある。だから「危険だ」と思う訳です。

飲み会に無理矢理行く必要なんてない。
女性は家で家事に専念すべきだ。
学生が深夜徘徊するなんてもっての他だ。
体罰は少しくらいなら仕方がない。

自分の意見は、その善悪関係なしに自由に持ってもいいと思いますが、その理由が「そういう時代になってきてるから」なんて理由だと無責任すぎやしませんかって話です。

「時代にそぐうものかどうか」と「現状にそぐうものかどうか」
意見が認められるべきものか間違っているかの判断をする場合は、(非常に近いニュアンスではありますが、)是非後者の視点で考えてほしいものだと思います。しっかり事実を見て、根拠をはっきりさせながら、かくあるべきだと結論付けてほしいです。

自分が社会に対する意見、ちと見直してみませんか。

そろそろ再開?

お久しぶりです。nockです。
なかなか忙しく目の前のことに精一杯で書くこと思い付かず放置したままかなりの月が経ちましたが僕はなんとか生きてます。
久しぶりに見たら、いつのまにか読者さんも微増してて、ちょっとずつでも読んでくれてる人がいることに嬉しく思います。
まだまだ手が空かない日々が続いてますが、もう少し余裕できたらまた色々書いてみようかなと。自分の考えを文章に落とし込んで自己満足しようかと。
というわけで直に再開&再会するかもしれませんのでよろしくお願いいたします。ま、どうでもいいですよね。はい笑。
気まぐれに。

自分の妥当性を誇示したいだけのナルシストは無視する強かさを持ちたい

誘導尋問に引っかからなかったときに論理性を無視して自分の妥当性を押し付ける説教をする上司なり指導者って嫌ですよね。

 

「そんないけないことして、最終的に変な風に思われるのは自分なんだよ!?」って相手のことを想った体の発言をして「別に周りにどう思われてもいいし」と答えたとき、「お前が良いならそれでいいけど・・」って納得する人は信用できます。けれど「そんな風に思うのは人としてダメだ」と切り返す人は、それは相手のための説教じゃなく自己の主張を盲信的に肥大化させ自分の妥当性を押し付けるだけのただの戯言を吐いているにすぎません。

 

相手のためとか言っておきながら自己の正当性ばかり主張する人って結構いませんか?

そんな人は相手を正そうとはしていません。自分の正しさを誇示したいだけです。相手を己の支配下に置きたいだけです。

やってることが卑怯なんですよね。主張に論理性がない分反論しようとしても「そんなことは筋が通っていない」と反論されるのがオチです。なんか納得いきませんよね。

「俺を誰だと思っている。教師の俺の言うことが聞けないのか?」なんて自分に陶酔しているだけのバカな教鞭垂れにはこちらの話が通じないから厄介です。

 

そんな人はもう放置しかないのだろうと。反論するだけ労力を使うだけだと。

そう割り切って接するしかないのかなと思います。

いらいらはしますけど、こちらが大人になって冷静に冷めた目でそいつを蔑むようでないとやっていけないと感じています。

 

そんな下賤な人と争っていても時間の無駄。できればマイペースを崩さず、話の通じる人とだけ議論する図太さと強かさを持ちたいと思っているのです。

 

「辛いけど楽しい」日々にするために

お久しぶりです。nockです。

久々の投稿は「辛いと楽しい」についてです。

 

「辛くて大変ですけど毎日が楽しいです。」という場面、漫画なり読んでいたらよく出てきますね。しかし、僕は気持ちにはどうも共感しえません。

だって辛い時は100%辛いです。その時に楽しいなんて全く思いません。

逆に楽しい時は辛いことなど微塵も感じていません。全身全霊で楽しんでいます。

だから、辛さと楽しさが一緒に感じられるなんて僕にはありません。

 

マッサージなんかは痛気持ちいいといいますけど、「辛くて楽しい」というのはそれに近い感じなんですかね。「辛いけど楽しい」ではなくて「辛いから楽しい」みたいな。辛いことを楽しめる人が「辛くて楽し」めるのだなあと思います。

けれど、残念ながら僕は辛い事には快感を感じられません。練習でのトレーニングは苦痛以外の何物でもありません。

 

ただし、辛いことを乗り越えた先に楽しいと感じることはあります。ランニングを終えた瞬間はなんとも清々しい達成感に包まれます。「辛いことを終えたから楽しい」気持ちは分かります。

で、ここで見てみると、結局「辛いけど楽しい」と言っている人も感じているものは一緒なんじゃないかと思います。考えると辛いことを直接楽しいと思える人なんて相当のドMの人でしょう。

「辛いけど楽しい」と言っている人は無意識にでも辛いことを終えた後の些細な幸せを感じ取れる人なのだろうなあと予想します。

 

日々はつらい事ばかりです。だからといって「あー辛かった」とばかり辛い言葉を反芻していると、折角辛いことが終わってスカッとした気分になれるチャンスをみすみす逃してしまいます。辛いことが終わって「また次の辛いことが待ってる」と憂鬱うになる前に一呼吸おいて「辛いことを終えた今は楽しいぞ!」と思える心の余裕が欲しいものです。

 

辛い日々でも楽しさを感じさせる秘訣は辛いことが終わった時の開放感を感じ取ることだとふと思うのです。

辛い中に作る楽しい瞬間を自分なりに見つけておきたい今日この頃なのです。

今の僕にとっての恋愛とは

こんばんは。nockです。

先日、僕の過去の記事に対して実に丁寧なコメントをいただいたので、その回答を兼ねて、現在の僕の恋愛観を少し記そうと思います。

 

僕は基本的に理屈で物事を考える人です。論理的な整合性をどんな現象にも求めてしまうのです。しかしながら、恋愛とは本能的なものであると思っています。理屈なんて抜きにこの人が好きだ、みたいな。

なので、いくら理屈をこねくり回してもゴールが見えないのが、僕にとっての恋愛というものです。それが分かっていてなお、理屈で考えてしまうあたり自分でもメンドクサイと思っていますが、そういう性なのです。

 

話は変わり、最近の僕のモットーは「期待しない」です。

50%以下は0%とする冷めた目で物事を見ます。簡単に言えば諦めがいいんです。

なぜならその方が楽だから。日々の生活には精神の安寧を一番に求めます。

 

というわけで、理屈と経験で自分自身の恋愛事情を分析したところ、今思っているのはこれです。

「どーせ恋愛できないんだからしょうがない。別にいいや。」

どう考えたって、僕はそういう人間じゃない。

誕生日にサプライズプレゼントを貰ったりとかしないし、晴れの日も雨の日も一緒に居るような親友ができるわけでもない。

妙に人生を達観していて人生を語るモードになったときにしんみりと話をして、それ以外はなんかおちゃらけた面白い人。

他人にとって一番にはなれない。うまく説明できないけれど、僕はそういう人なんです。

 

それならば、期待はせず「恋愛できないならできないで、それでいて(だからこそ)楽しいと思えることを探そう」という方向性になっています。

一人で好きなマンガを読むことを満喫する。いろんな女の子とお話しする。

恋愛しているとできないことを精一杯楽しんでしまおうというのがマイ・キーワードです。

 

正直言うと、最近思春期化して性の話に敏感になったりもしますし、恋愛に興味がないわけではありません。できることならしてみたいなという気持ちは大いにあります。

ただ、僕は理性的な現実主義者なので、その観点からすると恋愛は諦めた方が長い目で見れば得なのではという気持ちです。

「できないことをできるようにする」くらいなら「できない今の状態でどれだけ充実させられるかを探す」方に進みます。

 

幸い僕は一人でなんでもできちゃうタイプです。一人で学校で食事をするとかなんら苦ではありません。(ぼっち~とか言われるのにはムカつきますけど)

なので、コメントにあったように、無理してパートナーを見つけるのではなく、もし良い人が居たら~という淡い期待だけを抱いて、その時が来た場合に自分を選んでもらおうというスタンスでいようと思います。

 

結論、僕にとっての恋愛の位置づけは「あったらいいけど絶対必要かというとそうではない」加湿器みたいなものですかね。別に乾燥していても、恋愛マンガという保湿クリームで乾燥対策は十分です。

 

言っておきますと、僕はこれでいいかななんて結構すっきりした気持ちでいます。前回の記事を書いたときのように「本当にどうしよう~~」みたいな面持ちではありません。精神的には非常に安定しています。

僕は僕なりに、期待はしないで、他人の憐みの声をシカトしながら恋愛に向き合っていこうと思います。

「楽しい」と「楽」は性格が正反対だけど優しい双子

最近「楽しい」と「楽」についてよく考えます。字面こそ同じであれど、この両者の意味合いは対になっていると思います。

 

日々を楽しく過ごすキーワードは「後先を考えない」「感情を表に出す」「外界の変化に敏感になる」。

いつも同じでは飽きてしまいますから、形からでも形だけでも変わると言うことが楽しむためには必要です。

楽しく生きるには精神の変動を受け入れるイメージがしっくりきます。

 

日々を楽に過ごすキーワードは「期待しない」「妥協する」「人に流されない」。

人の言う事をへこへこ聞いていれば楽と言うかもしれませんが、それは頭の話ですね。精神的には人の言う事を聞いているだけだといつか綻びが出ます。

楽に生きるには精神の変動をおさえるイメージがしっくりきます。

 

「楽しい」と「楽」は交感神経と副交感神経、あるいは運動エネルギーと位置エネルギーのような関係にあるわけです。

ですから、「楽しい」の反対は「つまらない」ではなく「楽」、「楽」の反対は「辛い」ではなく「楽しい」であることが往々にしてあるのではないか思います。

 

「何が何でも」と前向きに考えると楽しく生きれるし「どうせ」と後ろ向きに考えると楽に生きれます。

このような「心持ち」を考える際にはこのような考え方をしすると聊か「楽」になるような気がします。

 

ただし、じゃあ「楽」だと「楽しく」はならないのかと聞かれるとそうではない気もします。

楽に楽しく生きるキーワード。それは「自分に素直」です。自分の欲に忠実になること、これが大事です。

欲は精神の変動とは相関関係はありません。なぜなら欲とは「~したい」という事実を指すからです。欲の程度は精神の変動と関係あるかもしれませんが、ここで言いたいのは欲が「あること」そのものが大事だということです。

程度の差はあれ楽な時は楽な時で「あれしたいな」と思うだろうし、楽しい時は楽しい時で「あれしたいな!」と思うでしょう。それに従っていれば、楽なときも楽しい時も、自分の欲を満たせます。逆に言えば、楽になりたいし楽しくもありたいと思うのならば、とりあえず自分に素直になってみれば良いと思います。

 

「楽」と「楽しい」の二兎を得るためには一石二鳥のワザ「すなおになる」を発動させてみましょう。きっと、楽で楽しい日々に、ちょっとでも近づくのではないでしょうか。

いちいち「ぼっち」とつっかかってくるな

僕は基本的にお昼ごはんは一人で食べます。大学の食堂でカレーを頼み、窓際の席で食べるのがスタンダードです。

理由??特にないです。研究室の雰囲気的に一人の方が楽ですから。他意はありません。

 

こんな僕を見るとたいていの人はこう言います。

「あれ?一人なの?研究室の人らは?なんでわざわざ一人で食べれん。寂しいなあ」と。

ぼっちで食べている僕にあからさまな憐みの目を向けてきます。

あのですね。こういうのもう辞めませんか。ぼっちなのに対していちいち突っかかってくるのは。

 

別にぼっちが寂しいからそこを穿るのはやめてとかそんなんじゃないんです。

こちとら一人のお食事を楽しんでいるのに、そこに「友達いないのかよ。ププッ笑」みたいな嘲笑の声で水を差してくるのが頗る気分が悪いんです。

 

そういう奴らは基本的にはいつも誰かと一緒に居て、誰かに縋ってしか生きていけない風情の他人依存者ばかりです。他人に寄生することで自分の存在意義を見出そうとする矮小なやつらです。

そんな一人でいられないやつらに一人でいることを小ばかにされるとそりゃムカつくでしょ。

「私が一緒に居てあげるよ!」とは言ってくれないくせに。一緒に食べてくれる人見つけなよなんて捨て台詞を吐いて去っていくのみです。

 

周りを見るとぼっちに対して冷たい視線ばかりです。

一人カラオケ。一人焼肉、一人ボウリング。

一人でどこかへ出かける人にかける第一声が「寂しいね」ばかりなのは胸糞悪いです。わざわざ誰かに声をかけないとカラオケにいけないならそっちの方が「寂しいね」です。

 

別にぼっちを寂しいと思うのは結構ですけど(まあ実際寂しいとは思いますけれど)、一人を楽しんでいる人だっているんだから(まあ実際楽しんでいるんですけれど)、わざわざ自分は他人がそばに居ないと生きていけないアピールをしてまでつっかかってくんなよと思います。

自分の理想に満たない他人に見栄を張ることで自分の矜持を保とうとする。実にちっぽけな行為です。

ぼっちが嫌な奴らはぼっちが嫌な奴らで群れて固まって穴の中で暖を取り合っていればいいんですよ。いちいち穴から出てきて来なくていいんです。埋めるぞ。

 

ぼっちは平気でもぼっちと言われることにはカチンとくることを、そこのぼっち恐怖症の君は覚えていなさい。