Knock our Heart -nockのひねくれブログ-

自分の価値観を表現する場所 

「自分は〇〇するために生まれてきた」と考えることの無意味さ

人はよく「自分は何のために生まれてきたんだろう」と考えますよね。

「愛してる。君にそう伝えるために僕は生まれてきたんだ」なんてロマンチックで素敵な歌詞もあるくらい、自分が生まれてきた意味、そしていま生きている意味を探ろうとします。

 

でも、「自分は〇〇のために生まれてきた」って答えが出たならば、〇〇が達成された時点でなんのために生きているのか分からなくなることを、みなさん自覚しているでしょうか。

「愛してる」と伝えたら、お役御免でこの世からバイバイするんですか?

そんなことないでしょう。なんやかんや、意味なんてなくても僕らは生きていかなければなりません。

 

そう考えると、生まれた意味を考えること自体無意味な気がしませんか?無意味とまではいかなくても、そこまで真剣に考えることがバカらしくなる気がしませんか?

僕は今、生まれてきた意味など何も考えず、ただ自分がこうしたいからこう生きています。天から与えられた使命を全うするなんて、そんなたいそうなこと考えてません。せっかく与えられたお命を、好きなように生きてやろうとしているだけです。

 

人の役に立つため生まれてきた。

人を幸せにするため生まれてきた。

 

そう思うのは結構です。でもそう考えてしまうと、それならば自分は人の役に立たなければならない、人を幸せにしなければならない。そういう風に思わなければいけなくなります。

それって疲れます。自分の行動が自分の生きる意味に制限されます。

僕はそういうの嫌ですね。

行動が生まれた意味に支配され、使命を成し遂げた後は生きる意味として支柱となっていた部分がぽっかり空いてしまう。なんか腑に落ちません。

 

生まれた意味なんて考えず、好き勝手生きてやればいいんです。

人の役に立つ理由は、人の役に立つために生まれてきたからじゃなくて自分が人の役に立ちたいと思ったから。そう言えるようでありたいです。

 

僕が生まれてきた意味は、僕の生きたいように生きるためです。

 

「秋」という季節

もうすっかり秋ですね。日が沈む時間も早くなり、昼間は温かいと油断していても帰る頃には何か羽織らないと帰れない、そんな季節がやってきました。

先日もスーパームーンとやらが話題になり、多くの人が秋の夜長に舌鼓ならぬ秋鼓を打ったことと思います。

 

僕はこの時季が大好きです。暑いとも寒いとも温かいとも涼しいとも言い切れない、どうにも明言しづらいこのどっちつかずでしんみりとした雰囲気は僕に合っています。

秋と言えば食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋・・・

実にたくさんのことが思い浮かびます。

それくらい秋というのは色々なものが一緒くたに織り交ざり折り重なった季節で、それはさながらミルクレープのようです(僕は食欲の秋が一番ということで)。

混沌の中にあるがそれぞれが主張しすぎずにどこか静けさすら感じられるこの雰囲気、分かります?

夏にあれもこれもなんてお腹いっぱいです。みんな勝手にやっとけって感じです。

冬にあれもこれもしようとしても何もできないです。みんなで包まって鍋をつつくしかできません。

けれど、秋はそれができるんです。さんまを食べているクラスメイトの隣で必死にボールを追いかける友達を横目に真ん丸お月様に思いを馳せつつ隣で本を読む彼女の手を握り心休ませる。そんなことが秋にはできるんです。

それが、「秋」という季節だと思っています。

 

「秋」とはどういう季節か?と聞かれ、一言で秋を形容できる言葉はなかなか見つかりません。夏とかは単純ですけど。「熱い」とかね。

四季の中で秋だけは宙ぶらりんな季節です。でもそれは決して不安定ではなく、無重力空間にいるような、あるいは母親の胎内にいるような、そんな心地よさを身にまとっている季節です。

 

新しいことに挑戦するもよし。今年の自分を顧みて気を引き締めるもよし。昔の思い出に心落ち着かせ若かりし頃を想い黄昏るもよし。俗世から離れて自分の世界に没頭するのもよし。

何をしても許されるのがこの季節です。

 

秋は一年のチェックポイントだと思います。秋を制するものは一年を制す。それくらい、秋に何をするかって結構大きかったりするのではないかと思います。

夏を楽しみすぎて終わってしまった夏を思って憂鬱なあなたも、夏はやりたいことやり過ごしちゃって何もしなかった夏に後悔している君も、この季節は心機一転なんでもいいからやってみてはどうでしょうか。きっと夏の楽しさとはまた違った充実感があなたを満たしてくれることだろうと思います。

 

好きな季節は?の質問について回答数絶賛最下位の秋(nockの独断)ですが、秋って実はいいものです。2015年もあと半年を切りましたが、これから十分挽回できます。むしろこれからが本番と言っても過言ではありません。

「秋」という季節、一緒に楽しみませんか?

「なんとなく」の人生は充実しないなんて誰が決めたのか

人は誰しも充実した人生を送りたいと思うものです。これには否定の声はそう上がらないでしょう。

そこで、世の中には「充実した人生を送るために」と謳った書籍が山ほど出版されています。また、親から、先生から、上司から、充実した人生を送るためのノウハウをこれでもかと教わってきた人は多くいることでしょう。

その「充実した人生を送る方法」で最もスタンダードな考え方が「自ら動くことが大切である」ということです。

 

夢も目標も持たず、ただなんとなく日々を享受するだけの人生は無味乾燥でつまらない。多少大変なことに足を突っ込むことで、やりがいや達成感が感じられ、充実した人生が送れるであろう。

これが、多くの充実人生論者の前提です。

しかし、僕はここに一抹の疑問を抱えずにはいられません。

 

そもそも「なんとなく」の人生は充実しないなんて誰が決めたのですか?

仕事は最低限のノルマをこなし、家に帰ると部屋にこもってテレビや漫画に惚け、眠くなったら風呂に入って眠る。そんな生活が充実していないなんて誰が断言できますでしょうか。

大きな幸せを得るために万の苦労をするよりも、未来に期待せずにほどほどに過ごす中でポンと見えた小さな幸せをちょっとずつ感じる方が幸せかもしれないじゃないですか。

別に成し遂げたい野望なんてなくても、命を懸けて守りたい人なんていなくても、真っ青な空を見て「今日はいい天気だ」と思ったり、道端に咲く花を見て「きれいだなあ」と心洗われたりする。それで十分だっていいじゃないですか。

 

今読んだ本にも書いてありました。何事もなんとなくで日々を過ごしていると人生はとてもつまらないものになると。

これは恋愛の本なのですが、このことを前提にして「恋愛はした方が絶対良いぜ!」みたいに言うものですから「いやいやちょっと、前提がそれでいいんですか!?」といちゃもん付けたくなります。

 

「失敗しない人生とは失敗が多い人生だ」なんて言葉も聞きますが、僕の人生経験からすれば失敗は失敗です。反省し、そこから何かを得て今に活かされていることは間違いないですが、失敗をしたその瞬間は間違いなくムカつく瞬間で取り返しのつかない嫌な時間です。

それなら、失敗から逃げて逃げて楽な道を選んでも全く悪くはない。かえって何気ない幸せを感じる余裕が生まれるかもしれない。

 

山あり谷ありの波乱万丈な人生だけが充実しているわけじゃない。波が穏やかで、海の底まで透き通って見えるようなそんな人生も決して悪くないと思うのです。

 

「埋め合わせ」という単語が出る関係は好きではない

僕は「埋め合わせ」って単語が出てくるような関係は好きではありません。

 

デートの日に突然仕事が入ったときに「ごめん!今度絶対埋め合わせするから!!」と言うような関係って、二人を繋ぎ止めているのが疑心暗鬼であるように思いませんか?。

「うわー。あいつ怒っているだろうなー。次はその分取り返していいことしないと。」なんてご機嫌窺いをしている間柄に真の信頼関係なんてないように思います。

 

「次は今日デートできなかった分も楽しもうね」ならいいですけど、そこに「埋め合わせ」という単語を使ってしまうと「次は失敗できない」などと勝手にプレッシャーを感じてしまいます。そしてその結果「今日はちゃんと機嫌を取ることができているだろうか」などと顔色を窺いながらのデートになるでしょう。

そんなデートならしない方がマシです。後味が悪くなってお金も吹っ飛ぶ逆一石二鳥みたいなもんですから。

 

「失敗したらその分は取り返さなきゃいけない」と責任を感じさせるような関係でいたくはないと思うのです。

 

「たくさん恋愛しておいたほうが良い」の意味が分からない

一つ疑問なんですけど、「若いうちにたくさん恋愛しておいた方が良いよ!」なんて言う人はたくさんいますよね?彼らはどういった面持ちでこのアドバイスを投げかけるのでしょうか?

 

たくさん恋愛するということはすなわちたくさん別れるということであり、別れた後も好きな人を見つけて付き合いなさいということですよね?

とすれば、彼らは「別れる前提でいいからとりあえず恋をしてみなさい」と言っているということですよね。

真意のほどは知りませんが、僕はこういう受け止め方をします。

本当に愛する一人の人と生涯寄り添ってほしいと思う人からは「たくさん恋愛してほしい」などという言葉は出てこないはずです。恋愛がすべてうまくいくわけじゃないことは理解できますが、だからといって「たくさんしてほしい」と未来の恋愛状況を決めつけるのは、僕からすれば恋愛を蔑ろな視線で見ています。せめて「次の相手が一生愛し合える人だといいね」くらいでしょう。

 

「恋愛なんてすべてがうまく行くわけじゃない」からといって終わりが来る前提で恋愛なんてしたくないし、「大学卒業したら自然消滅かなあ」なんて別れを仄めかす言葉をほざいて恋愛している人は怒りを覚えます。

 

そもそも恋愛を「経験数」で括って語るのはムカつくんですよ。

付き合った人数が多いと「すげーやろ!」みたいな空気感がありますけど、付き合った人数≒別れた人数=うまくいかなかった人数でしょう?付き合った人数が多い自慢をするという事は自分は一人の人を大事にできませんアピールをしていることと変わりないと思います。

同様にたくさんの人と恋愛しなさいアドバイスをするということは結果的に大事にしないくてもいいからとりあえず恋愛してみなさいよと助言していることに同じだとぼくには聞こえます。そして「とりあえず恋愛してみろ」とか馬鹿かよ、と思ってしまいます。どうしても恋愛を舐めくさっているように聞こえてしまいます。

 

恋愛経験は多い方が良いというのは全くもって意味が分からない。ただ言われた側を焦燥させるだけで、相手にいい恋愛をしてもらいたいという願いは一ミリも感じられません。

 

恋愛はたくさんした方が良いと言う人は何を根拠にそう言っているのか教えていただきたいものです。

僕が草食系である理由

やって後悔するのとやらずに後悔するのとではどちらが良いか。

こう聞かれると、大抵の人は「やって後悔の方が良い」と答えると思います。

しかし僕が良いと思うのは「やらずに後悔」の方なんです。それはなぜか。

僕にとっては「やった後に『やらなければよかった』と思う後悔」と「やらないでいて『やった方が良かった』と思う後悔」では断然後者の方が気分的に楽なんです。一旦やってしまうと結論が出るわけですから、失敗だとか思い通りにならなかったことに関して悔恨することしかできません。しかし、やらない段階では「もしかしたらうまくいく未来があるかもしれなかった」という「うまくいった未来の想像」ができるわけです。その期待感の分だけ、やらずに後悔の方を選択したいと思うのです。

ですから、「告白してフラれて後悔する」よりも「告白しないで告白しておけばよかったかもと後悔する」方を選択したいと思うのです。

 

しかしこれは、あくまで「告白が失敗することを前提とした」選択です。告白が成功すると分かっているなら告白しますよ、そりゃあ。周りの人の話によると、「この子はなんとなく自分に気があるな」と言うのはなんとなく分かるそうです。そうなると、告白がなんとなく成功しそうな感じがしますから、告白したいと思うでしょう。

ですが、僕はそんなこと一度も思ったことがありません。「もしかしてあの子俺に気があるんじゃね?」みたいなことは。他人に恋愛的な視線を向けられる感覚がさっぱり分かりません。

そうなると「当たって砕けろ」と言われるように。告白をするとしたら玉砕覚悟で行くしかありません。

ならば結論は一つ。「告白なんて馬鹿なことしないで期待だけしておこう」です。

 

いやいや、そんなみみっちいこと考えることなく「俺はお前がどうしても欲しいんだ!」と思えれば告白しても後悔はないでしょうが、そこまでして自分の物にしたい人なんていません。自分に興味ない人を頑張って振り向かせるような愛は、僕の中でピンと来ないのです。

 

「お前はそんなこと言ってフラれたときのプライドを守るための予防線を張っているだけだろ!?」

そんな声が聞こえますが、確かにその部分はあるのは否めないと思います。

ただそのプライドを捨ててまで欲しいと思える人がいないと言うことを理解していただきたいです。恋をするともう彼/彼女しか見えなくなるそうですが、理性が勝っている今の内はそこまでしてわざわざプライドを捨てることをする意味がないだろうと思うのです。

理屈で物事を考えてしまうのは仕方ないです。「恋は突然やってくるよ!」って言っても恋をしたことがない僕にとっては頭で論理的に筋道立てて「恋とはこうだろうな」と考えるしかないのです。分かります?

 

言ってしまえば恋に臆病なわけですが、やったことのないことに臆病になるのは当たり前のことですから認めます。チキンです。でも、バカにはしないでいただきたい。臆病は憶病なりに考えているし、臆病を払拭できればなと思ってはいます。

 

「若いうちにたくさん恋愛はした方が良い」なんて言われますが、それは望んでません。ただ一度、本当に大切な人と一生を一緒に歩む恋愛ができれば良いと持っているだけです。

草食系男子は誰よりも愛を大切なものと思っている生き物なのです。

 

「無意味な時間」は心底ムカつく

唐突ですが、僕は何が嫌いかと言うと、「無意味な時間」というものがいっちばん嫌いなんです。「今までの時間が完全に無駄だった」と思う瞬間が、体中の血が頭に集まって沸騰するくらい腹立たしく思います。

 

ドミノが完成間近になって全部倒れてしまうあの瞬間。

四天王と闘っている最中に母親にゲームを取り上げられるあの瞬間。

バイトに備えて準備をしているときに「今日予約少ないから君休みでいいよ」と言われるあの瞬間。

僕の期待とテンションを根こそぎ持ってかれるあの瞬間には憤りしか感じません。

 

人は誰しも何かにつけて意味を付けたがるものですが、自分の期待を打ち砕かれたあの瞬間には何の意味も見出せません。

100%自分のせいなら分かりますよ。倒してしまったのが自分だったり、四天王との戦闘中にはしゃぎすぎてゲーム機ブン投げたり、自分が前回散々ミスしたとかね。それなら「次は失敗しないようにしよう」なんて思って反省という意味付けをして納得はできますよ。

でもそれが他人とか神様のせいだったら、意味を付けようにも付けられないでしょ。

 

結局は、僕は自分じゃどうにもならないことが心底ムカつくんです。どうにもできないのに不利益だけ被って、バカらしいです。自分が一生懸命考えて費やした時間が全部パーになるんですよ。そうしたら「じゃあ俺は何をすればよかったんだ」って思うでしょ。それがもうふんぞり返るくらい腹立たしい。

ふと後ろから現れて僕の大切な大切な人生の一分一秒をガサッともってかれる。これほど忌々しいものはありません。

 

世の中は意味あるものばかりではないです。

「無意味な時間」というものを誰かにこの世から消し去ってもらいたいものですね。

みなさんはどんな「無意味な時間」を過ごしたことがありますか??