Knock our Heart -nockのひねくれブログ-

自分の価値観を表現する場所 

「行為」の価値

家に帰ると知らないおっさんがいた。不法侵入。100人中100人がそう思うだろう。

じゃあ、家に帰ると超かわいい有名アイドルがいた。しかも全裸で。この場合はどうだろうか。「超ラッキー!なんでか知らんが来てくれてありがとう!!ムハ――!!」とむしろ嬉々として迎え入れる人は少なくないのではないか。全裸というおっさんよりも達が悪いのにである。

両者は同じなのに片方は「やったー!」と思われ、片方は「キモッ。一回死んで来いクズ」と思われる。

世の中は所詮こんなもんだと思う。何をやったかはそれほど重要ではなく「誰が」もしくは「誰に」やったかが結構大きい。

お腹が空いていそうな友達にパンをあげた。すると友達に「今ダイエット中だから」と怒られた。パンをあげた側からすれば相手のことを思ってした行動なのにと不愉快に思う。

母親が息子を心配して学校でなにかあったかと問う。思春期の息子はそういうおせっかいな母親が嫌なんだと言う。母親からしたらせっかく心配してあげてるのにと哀しくなる。

行為はそれだけでは結果として良いことか悪いことかは定まらない。「誰が」「誰に」その行為を行ったかがあって初めてその行為は「良い行為」「悪い行為」となる。

だから「これは良い行為である」という行為は存在しない。同様に悪い行為も存在しない。

困ってる人に手を差し伸べる。これは世間一般的な見方で言えば「良い行為」だろう。でもそれを余計なお世話だと思う人もいる。その人からすればそれは「悪い行為」となる。

行為の価値は結果がすべてである。良い行為か悪い行為かを決めるのは自分でも相手でもない。行為を行った結果として良い行為になった・ならなかったというだけである。

だからと言って何も考えないのは良くない。大事なのは「これは良い行為である」という固定概念にとらわれずに状況、相手そして自分をよく見て行為を取捨選択するべきだという考え方をもつことである。そう考えることで自分の行為が「意味」を持つようになる。行為がただの動作ではなく、意味が与えられ素敵な輝きを放つ動作となれば、その行為を行った人も素敵な輝きを放つのではないかと考えるのである。

 

まあこうして僕は今「ブログを書く」という行為をしているわけですけども、このブログを読んでくださった方が涙を流しながら「あなたの言葉のおかげで救われました」と思ってくれる「良い行為」になると信じてます。

・・・思い上がってすみませんでした。