Knock our Heart -nockのひねくれブログ-

自分の価値観を表現する場所 

「見えない優しさ」は人に見られて初めて意味を持つ

人知れず優しい一面をしている人って素敵だと思いますよね。

誰でも「私たちの見てないところでもごみを拾うなんて彼女はとてもいい人だ」と言われれば迷わず賛成するでしょう。

 

でも少し考えると、それは誰かが「見たからこそ」彼女が良い人だと思ったわけですね。まあ、元々優しいと思われていることは十分にありますが、「ごみを拾うくらい優しい人だ」とはごみを拾うところを見てないとそうは思わないわけです。

 

つまり、優しさや心遣いは人に見られて初めて人に評価されるのです。

 

誰もいない教室で黒板をピカピカにし、机を完璧に揃え、塵一つ落ちていない教室にしたところで誰も見ていなければその人が良い人だとは気づきません。せっかくいいことをしたところで「良いことをしただけ」です。自分の評価という点では無意味です。

 

人間良いことをすれば、それに見合った報酬や評価を得たいと思うのが普通の心情でしょう。しかし、誰も見ていなければただの徒労で終わります。骨折り損のくたびれ儲けです。

真面目な人は「壁に耳あり障子に目ありと言う。誰が見ているかわからないんだから、いつでもいい行いはしていないといけない」と思ってずっと神経尖らせていいことをしようとする。僕がそういう人です。

そういう人は常に「自分は評価してもらいたいのにどうもそうでないみたいだ」と感じます。そして「もっといいことしなくちゃダメなんだ」とさらに骨を折ります。

 

でも、それは非常に疲れます。僕も疲れました。なんでこんなに偉いことしてる僕は何も言われなくて、そうでもないあいつが優しいなどと言われるんだ、と言いたくなります。

 

だったら、「いつだれが見ているかわからない」なんて考え方は止めて「見ていればラッキー」という考え方に変えるのが良いと思います。

気が向かないときは現状は放っておいて、気が向いたときにちょっと机を合わせたりとか、ゴミ捨てに行ったりすればいいんです。その時にだれか見てくれていたらラッキーと思うのです。

 

別にゴミ捨てに行かないからあいつはダメなやつだと思うことはありません。自分の身をわざわざ削って良いことをしなきゃ良くない人だと思われてしまう、という思考は杞憂でしょう。やらないのが普通、やればいい人です。

 

人が見てないときは頑張っていいことしなくてもいいんです。人が困っているときに「僕がやるよ」と声を上げればいいんです。

 

「優しいと思われたい」が行動理由であることは悪いことではないでしょう。

アピール上手というのも世渡りする上では大事なことなのだろうと思います。