Knock our Heart -nockのひねくれブログ-

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努力を認めるということについて

努力には2種類あります。それは「やれば報われる努力」と「やると報われるかもしれない努力」です。

 

「やれば報われる努力」はやった分だけ結果が出るもの。時給によるバイトは入れば入るほど、頑張った時間に応じて給料が出ますね。掃除だって、やれば必ずきれいになります。

「やると報われるかもしれない努力」は技術の進歩の面に多いですね。ホームランは頑張れば必ず打てるようになるとは限りません。練習してみんな打てるようになるなら今頃みんなプロ野球選手です。

 

目標をかなえるためには努力は必須。でも「やると報われるかもしれない努力」は報われないかもしれない。それなのに努力するのはやっぱり辛いよ。でもやんなくちゃ。

そういう思いを抱えながら努力する若者は多いと思います。でもそれは精神的に非常に疲れます。報われたい。報われたい。この努力が意味あるものであってほしい。そう願いながらがむしゃらに頑張っています。

 

そんな頑張る勇者たちに周りの人は何をしてあげられるでしょうか。

一番は「認めてあげること」だと思います。今日は素振りを100回頑張った。そのことに何も聞かず「頑張ったね」と言ってやる。今日は1時間勉強した。そのことに一言「お疲れ様」と声をかけてあげる。認めてあげるだけで頑張っている人は頑張る意味が感じられます。

 

ただし大事だと思うのが、「結果」を認めることはその人の努力を認めることにはならないということです。

今日は試合で活躍できなかった、という子どもに対して「惜しかったね。頑張ってるから次は打てるよ」と声をかけることは単なる励ましです。励ますことと認めることは違います。励ましの声をかける人が言及しているのは相手ではなく結果です。「悪い結果」が次は良くなるのであって相手が良いか悪いかは「後付け」として捉えられてしまうと思います。

良い結果であっても、今日ホームラン打ったんだ、という子どもに「いつも頑張った成果だな」と声をかけてもそれは直接子どもの努力を認めたわけではないです。結果があるから頑張っているといえる、と帰納法的に努力について触れただけです。

 

励ますことや褒めることには意味がないと言っているわけではありません。むしろ、というか当然ですが励ましたり褒めたりすることは必要だと思います。しかし、それだけでその人の「努力の過程」を認めたことにはならないのではないかと思います。要するにそれだけでは「報われた」という感じがないのではないか、ひいては努力をするモチベーション向上には繋がらないのではないかということです。

 

「やると報われるかもしれない努力」でも、”相手を”認めることで「必ず報われる」ようにしてあげるのが頑張る英雄たちに周りの人たちができることであると思います。「頑張った相手の結果」ではなく「頑張ってる相手の過程」を認めることが大事であると思うのです。

 

代わって「やれば報われる努力」に関しては「努力の過程を認めること」は意味がないとは言いませんが薄いように思います。

「やれば報われる努力」は文字通り「やれば必ずできる」のですから、その途中段階で「頑張ってるな」といってもそれほど「頑張る理由」が増えるわけではないです。それよりもこちらは「結果」に対して認めるべきであると考えます。

「やればできることをきちんとやった」という事について認めてあげるのです。そうでないと「やればできること」は「やって当然のこと」になってしまいます。それでは頑張った意味が感じられなくなり、努力する気が失せてしまいます。だからこそ、「結果」に対して「よくやった」と認めてあげることが大事だと考えるのです。

 

「やれば報われる努力」について認めるのは「結果」

「やれば報われるかもしれない努力」について認めるのは「過程」

 

この二つがごっちゃにならないように頑張る人たちに関わっていくべきだと思います。

 

 

 

いつにも増してわかりにくい文章になってしまった・・・