Knock our Heart -nockのひねくれブログ-

自分の価値観を表現する場所 

羽生選手と閻涵選手のアクシデントから考える「相手を想うこと」について

つい先日、フィギュアスケートの本番前練習中に日本の羽生選手と中国の閻涵選手が激しく衝突するアクシデントが起こりました。にも関わらず両選手は棄権することなく、本番に挑みました。

ネットを見ていると、「怪我を押しての強行を美談にするのはいけない」とか「あそこは無理にでも止めるべきだった」という意見が相次いでいます。僕はこれらの意見には概ね賛成しますが、詳細はまたの機会とします。

それよりも僕が強く感じたことがあります。ネットを見ていて僕はこう思いました。

「なんか羽生選手ばっかりだなあ」と。

今回の事故に対する報道やコメントの多くは「羽生選手に対する」もので、閻涵選手の容体や彼に向けての賞賛や労いといったものは数少ないと思いました。どちらの選手も痛みを押しての出場で演技をやりきりました。むしろ、閻涵選手の方が倒れているときは重症であるように見えたという話も聞きます。それなのに、ピックアップされるのは羽生選手だけ。

 

「それっておかしくない?閻涵選手も頑張ったのに。もう少し彼のことも気にかけることはできないの?羽生選手もヒーローに見えて感動したけれど、同じくらい閻涵選手も格好よかったのではないの?ああ、日本人って結局は自分の国の人が一番可愛いんだな。なんだかんだ他の国なんて眼中にないものなのかな。」そう思いました。

(中国とか韓国に対する日本人の過剰な反抗についても書きたいのですが、今回は取り上げません。)

 

でも人ってそういうものなのかと思います。人って自分が共感したり同情したり、すなわち相手のことを想うのは「相手と何らかの関係にある」からなのだろうなと思います。「何らかの関係にある」とは「同じ立場に所属している」という事でもあります。

羽生選手に共感するのは羽生選手と自分が「同じ日本人」という立場に所属しているからです。

「日本人」というくくりだけではありません。家族、クラス、性別、年代、職業・・・など私たちは色々なものに属しており、その一員のことを気に掛けるものです。

 

遠い外国で行われている戦争についてはなんとも思わないのに、自分の家族が現地へ行くとなると途端に心配するようになる。

普段は交通事故についてそれほど気にしていなかったが、夫が交通事故でなくなったのを機に交通安全の啓発団体に所属して世間に交通安全を訴えている。

これらは自分と全く関係のなかったことが「自分に関係あること」に変わったからこそそうなったのです。

逆に言えば、自分と全く関係ないものについてはいくら声を荒げて訴えかけられても何も感じないという事です。

 

そんな人間なんですから全く興味のない人に対して、「戦争はいけないことだ」と言うのは無意味だし、「こんなに交通安全を訴えているのに一向に世の中は良くならない」と嘆くのも当然です。

 

他人に対して共感することについて、大事なのは「所属を広げること」だと思います。

閻涵選手に対して「お疲れ様」と言える人はおそらく閻涵選手と自分が「同じ人間である」と言う考え方を持っているのだと思います。自分が「日本人」という立場であるとともに「人間」という立場でもある。それを自然のことと思っていると思います。所属するものが多いほど、またその範囲が広いほど、その人は「他人に共感できる人」だと思います。

交通安全を訴える際も、闇雲に交通安全を呼びかけていても手ごたえは感じられないでしょう。自分の訴えを聞いてもらうには、対象が交通事故の遺族でなくても「交通事故の遺族だったらどうか」を考えてもらうようにするのが初めにすべきことと思います。実際に交通事故の遺族になってもらう、という事ではなく、そうなったときのことを「想像してもらう」。それだけでも、自分の考えを理解してもらえることにグッと近づくと思います。

 

共感や思いやりなど「相手を想うこと」は相手と関係性を持っていること、あるいは関係性を持ちたいと思っていることが必要条件であると思います。

 

相手が中国人だからとかアメリカだから人とかじゃなく、男だから女だからとかじゃなく、年上だから年下だからとかじゃなく、すべての人が「同じ人間だから」と思って、相手のことを思いやる。そんな世界であってほしいと思います。