Knock our Heart -nockのひねくれブログ-

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言葉の乱れはあって然るべき

長年に渡って問題視されているものに「ら抜き言葉」があります。

 

ら抜き言葉」は、受身・自発・可能・尊敬の助動詞「られる」が可能の意味で用いられる際に、本来必要なはずの「ら」が除かれて使われることを言いますね。「食べられる」と本来は用いるべきものを「食べれる」と「ら」を除いて使用したのが「ら抜き言葉」です。

 

この言葉にひどく嫌悪感や不快感を示し、否定的な意見を述べる人が未だ多いそうですが、僕はこの「ら抜き言葉」に対しては擁護派です。

 

この「ら抜き言葉」が使用される背景には「可能動詞」があります。

可能動詞は、五段活用の動詞を下一段活用系の動詞に変化させ、可能の意味を表す単語です。「会える」「書ける」「遊べる」などがありますね。

こう見るとやっぱり可能動詞と助動詞「られる」を付けて可能の意味を表した語は似てます。

そして、「ら抜き言葉」を用いることで受け身でなく尊敬でもなく、はっきりと可能の意思が示せますし、それを使う弊害も見当たりません。

そりゃ「ら抜き」で使いたくもなるでしょう。いちいち「今の食べられるって受け身?可能?」なんて考えずに済むなら、一番効率のいい用法を取ればいいじゃないですか。

ら抜き言葉」はどんどん使うべきです。

 

こう言うと「これは日本語の乱れだ。即刻直さねばならん」と反論するお偉いさん方がいるでしょう。まあ確かに本来の用法からは逸脱したこの状況は乱れていると言えるでしょう。

しかし、言葉は乱れてはいけないのでしょうか。

 

思えば日本語は時代を経るごとにどんどん変化しています。

平安時代の日本語なんて読むというよりは解読に近いです。つい50~60年程前は文章はカタカナで書かれるものだったのに、いつの間にか今のようにひらがなが主体として書かれるようになりました。

この変化は時代の風潮に沿って刻々変わってきたものです。言ってしまえば、言葉は乱れに乱れながら年月を経て今のようになったのです。

「乱れた日本語は直すべき」派の人は自分たちが使っている言葉が、平安時代の人からすれば乱れるを通り越しているくらい乱れているという考えはもっているのでしょうか。彼らはただ単に自分がそれを使っているのが不愉快なだけではないですか?自分が使いにくくて嫌であるから「乱れ」というもっともらしい理由をかざして反論しているだけではないですか?

 

言葉が変化するのは、それを使う人々が使うと便利だと思う人が大勢いるからです。対して面白くも使い勝手もない一発芸なら何もせずとも自然と忘れ去られます。それと同じです。人々が便利だと思わなければ、言葉の変化はする必要はないです。

 

何でもかんでも言葉を略して使うのはいけないという人は「経済」と言う言葉はもともと「経世済民」であったことを知るとどう思いますか。「それはそう使うのが常識になってしまったのだからいいのだ」と言うと思います。「ら抜き言葉」等の言葉の変化もそれと同じでしょう。そうなるのが世の中の流れならそれに従うのはなんら悪いことではないと思います

 

言葉は「相手に伝えるため」にあるのですから、伝えらえるよりいい方法があればどんどんそちらに移行する。その流れに合わせていかなければいけない。それがある意味定石だと思います。そういう意味では言葉の乱れはあって然るべきものであると思います。

 

正しい言葉とは正しく相手に伝わる言葉です。