Knock our Heart -nockのひねくれブログ-

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「信じる」と「疑う」は紙一重

人を信じることは、人の行いとしては無論良いこと、誉れ高いことです。では「信じる」とはどういう事でしょう。

 

LIRE GAME(甲斐谷忍集英社)の一説にこういったセリフがあります。

「多くの人間が『信じる』の名の下にやってる行為はじつは他人を知ることの放棄。それは決して『信じる』行為ではなく無関心。」

 

この言葉にはひどく共感しました。「信じることは他人を知って初めてできる」ということに気付かされました。

 

友達が泣いている。「どうして泣いてるの?」と訊くと「クラスの男にぶたれた」と答える。それを信じた私は「痛かったね。辛いね。」と慰める。

 

友達の言葉を信じて行った行為は決して間違ってはいません。しかし、相手をよく知らない間柄では言葉の裏に隠されている真実には目が行きません。友達にぶたれたのはその友達に原因があるかもしれない、友達が泣いたのは本当は死んだ弟のことを侮辱されたからかもしれない。そんな背景があるにも関わらず私はのほほんと相手の話す言葉を信じるだけで相手自体を分かった気になっている。そうして、目の前のごたごたを万事解決したつもりになっているが、実際はただ慰めてあげただけであった。

こういう事実関係はそう少なくはないように思います。

 

「相手の言葉を信じる」ことと「相手を信じる」ことは違います。相手の発する言葉を信じるだけで、相手のことを信じた気になっているのは大間違いです。言葉には必ず「真意」があり、(その「真意」が言葉通りであるにしろそうでないにしろ)それを理解して初めて「相手」を信じることができます。

ただ「信じる」という言葉に美徳を感じている人は「なんでもかんでも言われたことしか信頼できない」状況に陥ってしまうと思うのです。その癖に「私はあなたを信じているからね」と投げやりな好意を向けるのです。

対して自分のことを知りもしない人から「あなたを信じているから」と言われると「俺のどこを見て信じてるんだ」と言いたくなります。

 

信じることはそう軽い行為ではありません。むやみやたらに周りを信じてばっかりだと信じるの意義が軽薄になります。テレビから流れるニュースを信じることと、今日大会の息子の勝利も信じることが同列のように扱われることが危惧されます。

別に信じるものが多いのは悪いことではありませんが、対象について自分はよく知っているのかを吟味しないと、本当に大切な人を自信を持って信じることはできません。

 

そのために、相手のことをよく観察すること、そして「疑うこと」が大事です。疑うことは相手を悪く思うことではなく相手の真意の居所を探すことです。相手の真意を疑って疑って、ああ真意はこうだったのかと気づく。その積み重ねで「信じる」ためのスタートラインに立てます。

相手を疑うことは決して疾しいことでも人としていけないことでもありません。むしろどんどん疑うべきだとも思います。甲斐谷さんの作中にも人は疑うべきだとあります。(本人がそう思っているかは分かりませんが)

人を疑うことと人を信じることとは紙一重で隣り合わせです。人は人を疑うことで段々と良さに気付いていくのです。

 

「信じる」という行為は2段階あり、「相手の言葉を信じる」段階と、それを更に突き詰めた「相手を信じる」段階がある。そして、そのステップの間には「疑う」という必要条件がある。

どちらの段階も「信じる」ことには変わりないですが、人としてはやはり第2段階には進みたいですね。

 

みなさんには本当の意味で信じられる人はいますか?