Knock our Heart -nockのひねくれブログ-

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読書感想文を書く意義

僕は昔から読書感想文が苦手で嫌いでした。
何が嫌だったかと言うと、まず読書自体が苦手でした。ページをめくると文字が所狭しと乱立している活字の書籍を見るたびに嫌悪感を抱いていました。今は読書は生活の一部となるくらい大好きになりましたけど。
それはまあクリアできました。暗号ではないので嫌々ながらも時間をかければ読み終えることができますしね。

問題は書く方です。原稿用紙5枚に感想を書く意義が全く感じられなかったのです。

読了すればさすがに感じたことの1つや2つはありました。しかし、その感じたことを原稿用紙いっぱいに文章にすることに抵抗感しか感じられませんでした。
「そもそも、感じたことなんて言葉で言い表せるものじゃないんだよ。すごかった、とかかっこよかった、とかそれ以上に何があるってんだよ」とぶつくさ言いながら拙い語彙力の中必死にそれっぽい言葉をひねり出して感想文は仕上げられました。
「要約とか書く奴いるけど、要約って感想じゃないじゃん」とか「あらすじ書くのはずるいよ。求められているのは私たちがどう思ったかなんだから。」とか、感想じゃないものに対して勝手に物議を醸して反論していました。
読書感想文は僕の敵でした。

よく思えば、そもそも「読書感想文の書く意味」について、深く教えてもらってないなあと思います。
課題を与える先生からは「思ったことを〇〇字以内に収めて書きなさい」としか伝えられなかったので、僕は長らく「思ったことを〇〇字以内に収めて書く」ことが読書感想文の書く意味だと思っていました。本来1000字では収まりきれない感想を巧く短くまとめて1000字に収めるようにする能力が求められているのだと思っていました。
しかし、1000字に短くするどころか、思い浮かぶ文章は50文字もなく、「それなのに1000文字も書けるわけないじゃん。」と頭を抱えていました。求められる理想と自分の能力の現実の相違が嫌で嫌でたまらなかったのです。

しかし、実験結果をまとめてレポートにするようになったり、友達とあるテーマで白熱議論するようになった今、読書感想文を書くことで培われる能力は多分にあると思うようになりました。
文章の流れを掴み、その中で大事なポイントを見つけ、事実の記述と考察・感情の区別を付け、自分の思いを言葉にして相手に伝わるように伝える。読書感想文を書く際に用いる能力は、すべて大人になってコミュニケーションを取る際に必要となる能力です。決して読書感想文は「本を読んで思ったことをまとめる」のが目的なのではなく、「本を読んで自分が言いたいことをまとめる」のが目的であると思います。簡潔に言えば「感想」ではなく「意見」をまとめることが主たる目的であると思います。
自分の意見をその本を読んでいない人に伝えるのだから、当然あらすじを書いたり、要点をまとめたりすることは必要となってきます。ですから、読書感想文にはあらすじを書く分の原稿用紙が渡されるのです。

意見と感想は似て非なるものです。「〇〇はこうした」という事実に対して、自分が受け取ったものが感想なのに対し、自分が言及しようとしたものが意見です。感想は受身、意見は能動です。その意味では感想の上に意見があるといってもいかもしれません。

読書感想文で求められていたものは「感想」よりもさらに高度な「意見」であったと思います。

僕が読書感想文を書く際にこのことを言われたならば、僕はもっと張り切って読書感想文に取り組んでいたでしょう。
「登場人物のこの行動に対して、自分だったらこうする。それはここにこういうことが書かれていたからだ。だが最終的にはこうなったから主人公は間違ってはいなかった。それに対し自分はこう思う。~」
自分の主張を述べようとするとこうしてつながりを意識して文章を作る。そのため非常にメリハリのある面白い文章になる。一方学んだことだけを書くなら、事実の結果のみを取り上げて「ここに対してこう思った」と書けばよく、それを並列して文章を増やしていくので単調なつまらない文章になる。
面白い文章を書けるようにするためだと教えられていれば、読書感想文自体も楽しいものであったのにと思います。

勉強なら何でもそうですが、まずどういう能力を付けるためにこれをするのか、そしてこれがどう生かされるのかを初めにしっかり教えることが読書感想文において重要なことであると思います。
なんとためにこれをやっているのか分からないけどとりあえずやれって言われたからこなしていく。それでは伸びるものも伸びませんし、第一面白くありません。
読書は、そして相手に自分の意見を主張することは面白いものであるはずです。その面白さを伝えられる教師が子どもの前に立つことを望みます。