Knock our Heart -nockのひねくれブログ-

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「お前は人のことを言えない」と言う人は人のことを言えるのか

例えばいつも遅刻してばかりの先生がホームルームの時間に「遅刻はいけません」と説いたとします。

これを聞いた生徒の中に必ず一人はこういう生徒がいます。「お前が言うな!」と。

確かにそう思います。自分が遅刻しているにも関わらず遅刻はだめだなんて説得力がありませんね。自分で約束を守れない奴なんかの指図なんて受けたくはないです。反感を持つのも十分納得できます。

けれど、その先生の言う事を全く聞かないのは、それは話が違うと思います。「遅刻してはいけないとか言っている先生が遅刻しているんだから、俺らも遅刻しようぜ。」はおかしいです。それは先生の挙げ足を取って自分への言い訳にしているだけです。

相手の言っていることとやっていることが違うからと言って、その人の話を聞かないのはおかしいことであるというのが、この例から見て取れると思います。

 

しかし、人はたびたび「お前は人のことを言えるのか」と言って、相手の言動や行動を全否定しようとします。人間関係の諍いでは特に、「お前は人のことを言えないだろう!」「あなたこそ私のことを言えないんじゃないの?」と醜い水掛け論が起こります。自分を正当化するために相手を不当化するのです。

 

自分の主張を相手の鼻をくじくことで押し通そうとすることは非常に不愉快な行為です。どちらがより正しいかではなくて、どちらがより正しくないわけではないかが議論の内容になってしまいます。その結果、遅刻してはいけないと言っている先生よりもそんなことは言っていない自分たちの方が悪くはない、といった螺子曲がった善行に走ってしまいます。

 

そもそも、「人のことを言えるのか」と言う人は人のことを言えるのでしょうか。

「ちょっと、いつもいつもリビングを散らかして。散らかったら片づけてっていつも言ってるでしょう。」「そんなこと言ってるお前も寝室は汚くしているだろう」

こう反論しても自分は片づけていないことは明らかです。人のことは言えません。そんな人ほど相手が片づけていないことに対して文句を言います。その人が相手の過失を笑うことができるかというとそんなことはあり得ません。自分の過失は何一つ消えてはいませんから。

「人のことを言えるのか」と人を責める人は決して人のことを言える立場ではありません。

完璧な人なら人のことを言えるでしょうが世の中に完璧な人はいません。いくら自分は遅刻しないという自信があったとしても、必ず絶対100%遅刻しないという保証はどこにもないのです。誰にでも遅刻する可能性はあります。

 

ですから「人のことを言えるのか」という批判は禁句であると思います。相手の不満を煽り、相手との関係が拗れるだけ。言ったところで自分の不当性を誇示するだけ。何も自分の立場を有利にする要素のない言葉であるということに気付くべきだと思います。

 

人に注意をされたとき「お前が言うな」と思う事はあります。けれど、そこで大事なことは、一旦自分の過失についてちゃんと考える、そして相手の言論が正しいか否かを公平な目線で判断する事だと思います。「公平な」と言う部分がミソです。先入観にとらわず客観的な立場から物の善悪を判断するのです。それが良好な議論をするために必要なことであると思います。

 

行動と言動が間違っていることと話を聞き入れなくていいことは全く別です。説得力のない意見でも合っていることだってあるのですから。説得力がないからと言って全くその人の言う事を聞かないのは、ある意味その人の言葉を信じているのと同じです。どれだけその人が信用置けない人であったとしても、された注意は真摯に受け止めるべきです。「人のふり見て我がふり直せ」と言う諺があるように、他人の不当な部分は自分の不当な部分であるかもしれないと考えるべきだと思います。

 

逆に「自分な人のことは言えないから注意をしてはいけない」というのもこれまた違います。たとえ自分が実行できていなくても自分の思う正義は貫けば良いと思います。

 

大事なのは「正しいことを判断する目」。「誰が」言ったかではなく「何を」言ったかが物事の良し悪しを判断する際には必要なことです。注意をされたら反発したい気持ちをぐっと堪え、正しき行いを選択する。大人であれば身に付けたい目であると思います。

 

人間関係は良好でありたいもの。無意味な反発は止めて、自分の非も相手の意も受け入れながら関係は続けていきたいものです。