Knock our Heart -nockのひねくれブログ-

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「規則」は問答無用で守るべきもの

今日読んだある漫画雑誌で「学校にゲームを持ってきてはいけないのは正当な理由がない」と先生を論破する場面がありました。「休み時間は生徒の休息の時間だ。それなのに休息を楽しめるゲーム機を取り上げることに論理的理由はない。なぜ校庭の遊具で遊ぶのは良くてゲームはダメなのか。正当な理由がないのにゲーム機の持ち込みを禁止するのは不当である。だから学校にゲーム機は持ってきてもよいはずだ。」とその生徒は主張しました。

これは論理的に正しいように聞こえますが、正しい正しくない以前に、この主張自体論理的ではありません。なぜなら、他人の主張の論理性がないからとその正当性を棄却することが論理的に飛躍しているからです。ゲーム機を取り上げることに論理的理由がないのと同じように、ゲーム機を持ってきても良い論理的理由もありません。相手が不当ゆえそれを棄却=自分が正当である、は論理的には全くつながりがありません。

 

そもそも、規則と言うのは論理的云々ではないと思います。規則は「こういう理由があるためにこうでなければならない」と絶対的に決められるものではないと思います。規則とは「一般的な社会通念上の行き過ぎを防ぐために敷かれた行為の境界についての取り決め」と自分の中で定義しています。いわゆる「マナー」を守ることにおいて「ここから先はマナー違反でここまではマナーとしてOK」という境界を一般常識に従って決めたものが規則である、ということです。

「一般常識」は論理的ではありません。ある人にとっては常識でもある人にとっては常識ではない。それを承知で平均的な意見を寄せ集めたものが「一般常識」と呼ばれることで、そこに「こうだからこう」という明確な理由は存在しません。常識に「なぜ?」と言っても意味がありません。明確な理由がないからこそ、行き過ぎを防ぐためにいいことと悪いことの境界線を決めてしまいましょう、というのが規則であると思います。

ですから「なんでゲーム機を持ってくることはいけないの?」という問いに対する答えは「たまたま境界がそこに決められたから」としか答えられないと思います。休み時間にゲームをするのがいいのなら、お菓子も、携帯電話も、人生ゲームも、モデルガンもなんだって持ってきていいし、家に帰ったって、裸になったって、廊下でボウリングをしたって構いません。でもそれはさすがに行き過ぎでしょう。ですから、我々は「ゲーム機」の所に境界線を引きましょう、と規則が決められるのです。「なんでそこに境界を敷くんだ」という反論が通じないのは仕方ありません。そこに境界を敷くことにはっきりとした意味はないのです。

 

「人を殺してはいけない」という規則(法律)はそれが正しいことであるという証明はできません。その規則があるのは、大多数の人が正しいと思い込んでいるだけで、社会通念上いけないこととされるからにすぎないのです。「なんで人を殺してはいけないんだ」という問いに対しては「人を殺してはいけないことになっているから」としか答えられません。

 

世の中の殆どの規則はそれにしなければならないという明らかな理由は存在しません。規則はそれ以上でもそれ以下でもなく、問答無用で否が応でも受け入れなければならないものです。規則は「理由なんてどうでもいいからとにかく従わなければいけない」ものであると思います。

 

世の中すべてが論理的に説明できるものではないのが現実であると思います。

皆さん規則はきちんと守りましょう。