Knock our Heart -nockのひねくれブログ-

自分の価値観を表現する場所 

「宗教的」だと人を非難する人は「宗教はダメ」教を布教する宗教者

自己啓発本を読んでいると色々と周りからこういうことを言われます。

「そんなに本ばっかり読んで変わっていると、変な宗教にハマっちゃうんじゃない?」と。色々と本に流されているように周りからは見えるようです。

ですがそんなことはないです。本を読んだとおりに「よし。やってみよう。」と思う事もあるけれど、「それは違うだろ」という内容の本もあり、その場合は頭で考えるに留めています。決してなんでもかんでも読んだ書籍の内容を忠実に再現しているわけではないです。取捨選択はしています。ただ、結構価値観が最近変わってきたので常に流されていると思われれるのも仕方ないとは思います。

 

そもそもよく考えれば、自己啓発本も宗教も根本的には変わらないのじゃないかと思います。もっと言えば親や友達の慰めや相談も宗教と変わりないのではないかと思います。自分の意見を押し通してばかりいる傲慢な人は広い意味で「自分の意見を押し通す教」の教祖であると言えるでしょう。

 ある人の考えをほかの人に伝えてそれを普及する。その点では宗教も自己啓発本も相談に乗ってくれた友達も大差はないです。宗教がいかがわしく感じるのは、本当にいかがわしいものの割合がそれらよりも圧倒的に多いからというだけです。こういう考え方をすれば人生はよりよくできる。それが宗教であり、決して忌み嫌うべきものではないはずです。宗教自体は悪いものではありません。

しかし、現実を見ればこうしたらよいという意見を受け入れると宗教的だと言って遠い目で見られます。書籍のいうことに囚われてはいけないと言うけれど、なぜ囚われはいけないのか尋ねると納得のいく回答は得られません。「書籍は必ずしも正しいことを言っているとは限らない。」と言うけれど、それなら相談してあなたが出してくれた意見も正しいとは限らないです。それなのに、「自分の意見を全く聞かず遠ざけるのはおかしい」と反発を食らいます。

 

別に自分が「確かにそう思う」と意思を持って取り組もうとすることは悪いことではないと思います。そのきっかけが宗教だろうが書籍だろうが友達のアドバイスだろうが変わらりません。明らかに常識から外れ、公序良俗に反していれば咎められるべきですが、その範囲内であればなんら問題はないはずです。

 

宗教的だからといって書籍を読んで自分が変わろうとすることを妨げられては、自分はどうやって変わっていけばいいのでしょうか?目の前の相手の言うことを逐一聞いて変わるしかないのでしょうか。それこそその人の言う宗教的でしょう。宗教はダメを布教する宗教家ですよ。パラドックスです。

 

信頼がおけるかおけないかなんて書物を読んでいない第三者にわかるわけがありません。ただ本を読んでたくさん変わっているからと言って、ただ周りの意見をたくさん取り入れているからと言って、その意見や主張に信頼性がないとは言えません。それはすべて憶測でしかありません。

 

人を変えるツールは様々にあって良いと思います。それが現実的だろうが非現実的だろうが、事実だろうが仮想だろうが、証拠があろうがなかろうが関係ありません。その人が良い方向に向かっていくのならきっかけはなんだっていいと思います。

 

宗教的だと人を非難する前に、自己矛盾と自分が変わる必要性について考えてみるべきだと思います。