Knock our Heart -nockのひねくれブログ-

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習性を男女で分けることは「差異」であり「差別」ではない

人間同士の友情は実に様々な形があります。ボケとツッコミ、主従関係、付かず離れず、常にべったり・・など色々な関係性があります。これらのどの関係性においても二人が一緒に居る理由は大きく分けて「好きか嫌いか」と「合うか合わないか」に分けられると思います。

しかし、これに男女で大きく認識の差異があるのではないかと思いました。

 

男性の目線からすれば「好きで一緒に居るけど別にこいつと合うわけではない」という関係性、つまり「好き≠合う」の関係性が普通であると思います。

「喧嘩するほど仲がいい」とか「腐れ縁」という言葉があるように、性格的には全く合わない二人だけれどなぜかいつも一緒に居る。そのことに違和感は全く感じないと思います。こいつとは相性は合っているけれど別好きな訳ではないから常に一緒にはいないというのもあるし、逆に相性が合うからこいつのことは好きだしいつも一緒に居るというのもある。多様な馴れ合う理由が普通に受け入れられているように思います。一か所に留まらない流動的な人間関係であると言えると思います。

 

一方、女性の目線からすれば「好きな人なら当然性格も合うでしょ」という関係性、つまり「好き=合う」の関係性が通常意識であるのではないかと感じます。

性格的に全く合わない女性二人が一緒に居る場面はあまりピンとこないです。常におそろいのストラップを付けて、同じ歌手が好きで、どちらも趣味が同じで、というように、フィーリングがこれでもかと合う人同士が一緒にいるように思います。嫌いだったら当然一緒にはいないし、相性が良くなくても消滅に達する。結局残るのはお互いに好きであるし相性が合う組だけではないかと思います。その分がっちりと強固に固定化された関係であると思います。

 

女性は男性のグループに対し「全体的にさばさばしているしこの人たち本当に仲がいいのかしら」と疑問を抱くし、男性は「ずっと君らは君らだけでいるけれど特定の人としか仲良くできないのか」と疑念を感じます。

 

このような意識の差により齟齬が生じていることは多くあると思います。

こうした男女の習性の違いを挙げると「差別だ」と言って非難する人がいますが、それは違います。

 

性格傾向を男女で括るのは大雑把だし、必ずしも現実と一致しない場合は多々ありますが、体のつくりや生物的機能も全く異なりますし、男女間の違いというのはやはり存在すると思います。

「男はこうで女はこう」という分け方に対して「すべての人に当てはまるわけじゃないからそれは差別視している」という意見を耳にしますが、一般論として男女で括れる事項は多くあります。特定の個人に対して「あなたは男だからこうであるはずなのに」というと差別です。ですが「男はこういう傾向がある」といった程度で差別だと言われても腑に落ちません。

 

逆に男女間の違いというのはどんどん分類してくのがよいとも思います。人間の性格を2つに分けるなんてナンセンスだと言われますが、男女それぞれの集団においておおまかな傾向はやはりあります。その差異を認めてあげることで、男女間の相互理解も深まり、男女差別はなくなる方向へ向かうだろうと思います。これを「男女で区別するのはいけない」としてしまったら、男女の差異がうやむやになってしまいます。これでは男女差別の解決はできません。

 

差別をなくすことは差異をなくすことではありません。差異を認めた上で差別的視点を改めましょうというのが差別をなくすことです。差異自体をもみ消そうとしたり、見て見ぬふりをするだけではでは差別はなくなりません。これは男女差別だけでなくあらゆる差別について同じことが言えます。違いを認めることが差別の解消に受けて踏まねばならないプロセスであると思います。

 

違いはあるもの。差別は差があるから悪いのではなく、差を認識する私たちの心がゆがんでいるから悪いのです。

差異を認める。これが差別撲滅の第一歩であると思います。

 

話が大分逸れてしまった・・・