Knock our Heart -nockのひねくれブログ-

自分の価値観を表現する場所 

「うまい話」は自分のことになると信じてしまう。

Twitterのタイムラインを見ていると、人形の死体が打ちあがったという話が流れてきました。見てみると確かに上半身が人間で、下半身が魚のような長いひれがついており、一説にいう人魚でした。他にもいくつもの人魚目撃情報がありました。

これだけ目撃されているのだから人魚の存在は認めざるを得ないような気がしますが、僕はこれだけ目撃されているからこそ逆に信憑性がないと思います。

 

いくつも目撃されて話を聞く人魚は総じて上半身が人間で下半身が魚です。どう考えても生物種的に異なる両生物がドッキングするのはまず考えにくいです。哺乳類と魚類が体をちょうど半分ずつ分け合うなんて合理性も必要性もありません。人間と魚がありなら鳥人間だってどこかにいるはずですし、上半身が鳥で下半身が魚の生物だって発見されても何らおかしくはないです。

けれども、発見されるのは上半身が人間で下半身が魚の生物のみ。しかもすべてが(人間でいう)女性の上半身をしています。さらにうまいことに上半身が魚で下半身が人間のバージョンなんて聞いたことはありません。人魚と言えば上人下魚の一択です。

数ある人魚の中でたまたまそういう人魚しか見つからなかったなんていううまい話はあるわけありません。上人下魚の存在意義があるのなら、上魚下人の存在意義も同様に確からしいとするのが自然であるはずなのに、一方は全く見ないなんて話がうますぎます。

 

宇宙人だってそうです。目撃される宇宙人はほとんどが地球人型をしています。もっとよくある火星人のような宇宙人やポケモンベトベターみたいなものだっていていいはずなのに、なぜか目撃されるのは人型ばかり。

ここにもうまい話がまかり通る場面が見受けられます。情報源が確かとは言えないのに。

 

うまい話は何度も続くと信憑性が薄れていきます

人魚とか宇宙人とか非現実的なことなら「そんなの考えればわかるよ」と言って現時点での情報からでは存在を肯定はしない人が多いでしょう。

しかし、意外と日常にもそういううまい話が続いていればその事実を信じてしまう場合があるのではないでしょうか。

 

 

例えば宝くじ。「当売り場で1等が2回もでました!」という看板を見ると「もしかしてここは当たるかも」とつい思っている人いませんか?

ここで当たった人が出たからといってまた1棟が出る保障なんてどこにもありませんし、むしろ一回も1等が出ていない売り場の方がでるのではないかという気さえします。実際は完全にランダムなのでしょうが。

けれども、ここで当たったのならここで買えば当たりやすいのではないかという錯覚に陥る人が出てきます。「ここで当たりが出たのだからここは当たりの出る場所だ」と思い込んでしまいます。だが照らし合わせてみれば「人魚が目撃された情報があるのだから人魚はいるはずだ」と理由のつながる構造は同じであると思えないでしょうか。

 

またこんなことも考えられます。

友達から「あの子君のこと好きらしいよ」と言われても「ふーん」くらいに捉えるけれど、「あの子とあの子とあの子が君のこと好きらしいよ」と言われると「自分ってモテてるんだ」と思ってしまう。

好きだと聞かされる人が一人だと「どうせ身もふたもない噂でしょ?」と軽く受け流すのに複数の人が狙っていると聞かされると本当に好きだと思ってもらってると思ってしまう。

これはなんだか容易に想像できませんか?

 

友達の伝えた文面だけみれば信憑性は全く変わらないのに、後者に強い信頼感を感じます。逆にそれだけ多くの人から好かれることの方が不自然な気もします。

 

つまるところ、「うまい話が何度も続くと、人は自分に関係のない事実ならば信憑性を疑うことができるのに、自分に関することとなった途端にその判断ができなくなる」といえるのではないかと思います。

第三者目線ならば友達が別の友達に先ほどの話をしてても、話を吹っかけた友達が本当のことを言っているのか法螺を吹いているのかは一目で分かるでしょう。しかし、自分に言われると相手の態度がどうであれ期待をしてしまう可能性は高いと思います。

 

「そんなうまい話あるかい馬鹿馬鹿しい」と鼻をほじりながら相手にしないような人でも、いざ自分に話を持ちかけられると話に乗ってしまうことは十分に考えられます。

なんでもかんでも疑いの目で見ろと言うわけではありませんが、「ちょっと待てよ?」と気付くことができるセンスは持ち合わせていた方がよいと思います。