Knock our Heart -nockのひねくれブログ-

自分の価値観を表現する場所 

救うことは暴力となりうるが、それは手を差し伸べる方法が間違っているからだと思う。

今日ある有名なブロガーさんのトークセッションに行ってきました。そこで生き方とか価値観についての議論が2時間という短い時間ですが行われ、感じるものが多々ありました。

 

その中で印象に特に印象に残った話題が「救うは暴力となりうる」という話題です。

自分が人を救いたいと思っていても、相手が望むことじゃなかったらそれは救ったことにはならない。「救う」とは救う側のエゴではないか。いくら自分が相手のことを想ってやったことでも、救うとは常に「やってあげてる」という上から目線となり、相手の真の気持ちを踏みにじる、ひいては暴力となる。

救うとはいったい何なのか。相手を助けてあげたいという気持ちはどうすればいいのか。

 

これが議論の概要でした。

 

それに対して、いろいろ意見が出たわけですけれども各々の意見に全般的に言えるのが次のようなことだと認識しました。

「悲しんでいる人は助けを求めているのではない。悲しいから悲しんでいる。だから、第三者である私たちが手を差し伸べようとするのは救いではない。助けてほしい時は相手から何らかのシグナル、アプローチがあるから、その時に相手の話を聞いて手助けになってあげるのがよいのではないか」

 

これには概ね賛成です。相手が求めてもいないのに「助けてあげる」のは全くもって迷惑なことです。自分の好意の押し付けに過ぎません。

ですが事実「相手を助けたい」と思っている自分はいるわけです。先ほどの意見にはこの感情を除外しています。その点で、もう少し深く考える必要があるのではないかと思います。

 

自分は相手を助けたい、力になりたいと思っているけれど相手がそう思ってはいないような場合、私たちは黙って引き下がって見守るしかないのでしょうか。

僕は答えはノーだと思います。「助けたい」と思っているその意志は称賛に値するし、閉じ込めておくべきことではありません。

ただ多くの場合その意志の「出し方」がまずいのだろうと思います。

 

「私はあなたを救いたい」

それだけでは「相手が自分に悲しみの解消を強いている」ように感じてしまいます。「あなたのために」という言葉からは「幸せな自分が不幸な自分に力を貸してあげる」という優越感が滲み出てきてしまいます。

純粋な懇意で寄り添ったつもりでも相手は劣等感と不信感を抱くだけです。

ですから「救う」が暴力となりうるのでしょう。

 

大事なのはなぜ「救いたい」と思うのかを自分の思いとして伝えること。差し伸べる声掛けを、悲しんでいる相手中心ではなく自分中心の声掛けにすること。これだと思います。

 

「私はあなたを救いたい。貴方が悲しみから解放されれば私も嬉しいから」と自分の意見として助けたいという意思を伝える。

そうすることで相手は初めて自分と対等な関係として接しられていると感じられます。

相手の感情が見えることで「助けたい」という思いはダイレクトに伝わります。

相手を救いたいと思うならその意志が生じた訳をはっきりと示してしまえばいい。

 そうすれば「救う」という言葉は暴力ではなく文字通り救いの言葉になると思います。

 

以前記事にしたことであり、僕の座右の銘にもなっている「ユー・メッセージよりアイ・メッセージ」をやはり大切にしていきたいところです。

 

「助ける」や「救う」自体が暴力ではなく、その提示の仕方で暴力と捉えられると思います。

ですから、相手を助けてあげたいと思う気持ちは押し留める必要はなく、誇れば良いと思います。