Knock our Heart -nockのひねくれブログ-

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「良い人」と「素敵な人」は全くの別物

僕は長らく、「良い人」は「素敵な人」に繋がると思って過ごしてきました。道端に落ちていたごみを拾うとか、困っている後輩の手伝いをするとか、良いことをした人は当然素敵だろうと思って良いことを進んでしようとしていました。

 

けれど、僕は「良い人」とは言われるけれど、「素敵な人」とは言われません。どうしてだろうと考えたある日、「良い人」と「素敵な人」は全くの別物であると気付いてしまいました。

言ってしまえば、「良い人」は一般的評価、「素敵な人」は主観的評価なんだという事です。

 

「良いこと」であるという行為が常識・一般論としてあり、それを満たす人が「良い人」と認識され、「良い人」というレッテルを貼られるのです。

ごみを拾うという行為は世間的に見て「良いこと」だからそれを行う〇〇君は「良い人だ」という流れが自動的に構築されます。

「良い人」というのは言い換えれば「世間ウケする人」なのです。

 

しかし、「世間ウケする人」と「素敵な人」はイコールではありません。

いくら世間ウケする行為でも、それが「相手」にとって心揺さぶるものでなければ「素敵」ではないです。評価する他人にとって自分はどんな人なのか、が自分が素敵であるかどうかに関係します。そういう意味で「素敵な人」は主体的評価です。

 

ですから、僕の周囲の人に自分を「素敵な人だ」と思われるようにと頑張って良いことをしてきたのは、実は周囲ではなく世間体を気にしていたに過ぎないのだと思いました。「素敵な人だ」と思われたいのならば、自分の周囲のみんなにとって良いこととは何なのかを考えて行動すべきでした。その考えが自分には欠落していました。

 

ごみを拾うとか、後輩を手伝うとか、バスで席を譲るとか、落し物を届けるとか、筆記用具を貸してあげるとか、重たい荷物を持ってあげるとか、話を聞いてあげるとか。

今までずっと、これらのことを話題に出して「これをする僕って素敵じゃない!?」と評価の押し付けをしていました。相手のことなんて全然気にしていない。そんなん全然素敵じゃありません。

 

「素敵な人だと思われたい」と思うこと自体は悪いことではないですが、そう思うのならもっと相手のことを考えなければいけないと思いました。公平・平等という世間的な良い事から外れ少なからず相手を差別化して特別感を抱かせる、といった強かさも必要であると感じます。

 

真面目な人よりもちゃらちゃらした人の方がモテる。これはもう真理でしょう。

世間体と自分の周囲、どちらからよく思われるかは選ばなければならない。どちらからもいいように思われることは期待してはいけない。

世間体の善い人が素敵だという考えそのものを改めたいと思いました。